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飯塚の歴史と史跡

地名の由来

「飯塚」という地名がどうしてついたのか、説がいろいろあります。
その一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれます。

また、一つには聖光上人が、飯塚市の太養院において旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって小山をつくり、それがあたかも塚のようであったので「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになったとも伝えられています。

飯塚市は福岡県の中心部に位置し、古くから人が住み栄えてきた町です。


上記のとおり、「飯塚」という地名の由来の一つを、「神功皇后の徳を慕って飯塚まで従った兵士が
『いつか再び玉顔そ拝し奉らん』と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ(飯塚)の里と伝えられた」と説明しています。
このたび、「兵士ではなく、神功皇后が『いつか逢うべし』と言われた」のが由来ではないかとの御指摘がありました。
昭和50年発行の「飯塚市誌」において、以下の記述があります。
飯塚の地名の由来については、「曩祖八幡縁起」に神功皇后が征韓の帰途、曩祖八幡の地に立ち寄られて従軍の将士を郷里に帰されたとき、
将士離別の歌に「何日可逢」と再会の日を誓い、別れを惜しまれたということから「いつか」の地名が生まれたとある。(173ページ)
兵士が「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と述べたとの記述の出典を調べていますが、現在のところ確認できていません。
再度調査後、この欄で説明したいと考えていますので、しばらくの間、御迷惑をおかけしますが、御理解をお願いします。

縄文・弥生時代

今から約1万年前から飯塚の地に人間が足を踏みいれていました。そしておよそ2000年前の弥生時代には、飯塚の立岩に全国でも有力な集落が誕生しました。立岩遺跡からは、前漢鏡など出土品が多く見つかり、日本の古代史研究上有力な手がかりとして国指定重要文化財になり、その出土地点は市指定史跡になっています。

古墳時代

古墳時代に、飯塚一帯を支配していた権力者によって作られた古墳が、寺山古墳と川島古墳です。寺山古墳は市内最大の前方後円墳で全長68mあり、人物・馬・円筒埴輪が発見されました。川島古墳は市内唯一の装飾古墳で、横穴式石室の奥壁に人物・円文などが刻まれています。現在、川島古墳公園として整備され、春と秋には古墳内部が見学できます。

中世時代

律令体制が崩れ、各地に貴族や寺社などの有力者の領地である荘園が作られた時代です。飯塚には宇佐八幡宮の荘園がありました。

木造薬師如来立像は、相田の宝憧寺(ホウドウジ)にあり、高さ97cm、カヤの一木造(イチボクヅクリ)。およそ800年前の鎌倉時代初期に作られた数少ない仏像です。

法橋琳弁石卒都婆は、明星寺にあり、およそ700年前の年代が記され、4面に梵字を刻む珍しい石塔です。

戦国時代

戦国時代には、大友氏、秋月氏、宗像氏が飯塚をめぐって争っていたため、山城が多くきづかれました。
天正9年(1581)大友氏と秋月氏が激突し、八木山一帯が戦場になりました。千人塚は両軍の兵士の死体を集めて葬ったところと言われています。
笠木城は笠置山の頂上におよそ500年前に作られ、秀吉の九州平定のとき落城しました。筑豊地域では規模の大きい戦国時代の山城です。
彦山の山伏が宗像氏の姫の病気回復祈願を終えて帰る途中、笠木城の武士に殺されました。山伏塚はその山伏たちを葬ったところです。
関ヶ原の合戦後、飯塚は黒田氏の領地となりました。長崎街道が整備され、飯塚は宿場町として栄えました。

野村隼人祐直は大学と言い、黒田如水・長政・忠之に仕えた優れた智将でした。市内鯰田(清雲寺付近)にあるこの石塔は石造美術に優れており、江戸時代始めの頃の数少ない史跡です。

長崎街道

およそ400年前、江戸時代になると、幕府は江戸を中心に五街道を、さらに脇街道を整備して宿場を設け、交通・通信網を整えました。
中でも、脇街道の一つ長崎街道は、唯一の外国との窓口であった長崎と小倉を結び、異国文化を江戸へ運んだ街道でした。
長崎街道は長崎から小倉まで228kmあり、そして、街道筋には宿場町が25ありました。筑前の国には6つの宿場町があり、市内には飯塚宿と内野宿がありました。

出島に降り立った外国人は長崎街道を通り江戸まで行っていました。長崎奉行や参勤交代の大名、吉田松陰、伊能忠敬、オランダ商館長、ケンペル、シーボルト、さらに象までも長崎街道を通ったとされる記録が残っています。

炭鉱時代

明治時代に入ると筑豊地域では石炭産業が栄え、日本のエネルギー源として発展しました。

本格的に掘り始めるのは、明治時代に入ってからで、始めは「自由掘り」と言って人々が好き勝手に掘っていました。掘った石炭は遠賀川の川舟を使って、芦屋や若松まで運ばれました。
石炭は日本の近代産業を発展させるために重要なエネルギーだったので、大手企業が石炭を効率良く掘れるように法律が変わり、明治20年代に大手企業が大量に掘り始めました。
地元出身の石炭王として麻生太吉や伊藤伝右衛門がいます。麻生太吉はいち早く石炭を掘り始め、その後、伊藤伝右衛門は不良鉱区と言われた鉱山の開発に成功し、大手の仲間入りをしました。

明治30年頃から機械化が徐々に進み、炭鉱夫も増えて、石炭も大量に掘られ、運送方法も、船から鉄道に変わりました。北九州から鉄道を延ばし汽車で運ぶようになったのです。

人口は多いときで12万人を超えるほども集まって、いろんな文化も発展しました。たとえば炭坑節は、炭坑で作業する人達が歌っていた民謡です。
そして、多くの人がいたので娯楽として、映画館や劇場も沢山できました。映画館は15館もあり、江戸期の歌舞伎小屋の様式を残した嘉穂劇場は全国でも数少ない芝居小屋で、今でも現役で市民に親しまれています。

別名「シュガーロード」とも呼ばれる長崎街道の宿場町であった飯塚では古くから菓子製造が盛んでした。炭鉱で働く人々の疲れを癒した甘いお菓子。「ひよ子」「千鳥饅頭」「すくのかめ(さかえ屋)」など多くの名菓が誕生しました。

炭鉱時代の名残として、ボタ山があります。これは、石炭と一緒に掘り出された石や土を積み上げてできた人工の山です。

旧伊藤伝右衛門邸は明治時代に建築され、その後、伊藤伝右衛門が歌人柳原白蓮のために増築した建物です。筑豊の当時の繁栄をしのぶ数少ない近代遺産です。

私達の先祖が残した文化遺産を大切にし、未来に伝えていきましょう。

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