宗賢寺
内野宿を見おろす小高い丘の上に建つ名刹です。境内には内野宿建設・冷水峠の開削をおこなった内野太郎左衛門(うちのたろうざえもん)の墓があります。
卜祐宗賢居士 内野太郎左衛門の墓
内野氏はもと肥前松浦にあって松浦姓を称していました。 当地に「松浦川」「唐津庚申」の地名や塚が残るのは、内野氏の祖先に従ってこの地に移ってきた人々の故地に対する望郷の思いを示すものと言われます。
下って25代の子孫、内野太郎左衛門(豊臣秀吉に降って日向高鍋に移封された秋月種実の家臣、饗庭(あえば)彦二郎重信)は黒田長政公の筑前入国の際、烏尾峠で出迎え馬一頭を献上して備前兼房の刀を賜り、名島まで同行したといわれます。この時もちいられ1万石の代官を命ぜられ、同時に地名に因んで内野太郎左衛門の名を賜りました。
慶長年間(1596-1615)参勤交代のための道路整備に際し、日本一の槍を飲みとった黒田武士で有名な母里但馬が、黒田藩の命で代官として内野宿建設にあたりましたが、但馬が大隈城主となった後、内野太郎左衛門が冷水峠開削の任にあたり、慶長17年「内野宿」を完成させました。内野氏が軽輩ながら、かかる藩の大事業に起用されたのは長政公の厚い信任を受けていたからにほかなりません。 従来山間の一寒村に過ぎなかった内野が長崎街道・筑前六宿の一つとして栄えるようになったのは、実に太郎左衛門翁の功績にほかならず、内野の開祖と仰ぐ所以です。 元和9年(1623)長政公が没すると薙髪(ていはつ)して小庵を営み、公の戒名から卜の一字を許されて卜祐宗賢と号し、日夜公の菩提を弔いました。寛永16年(1639)61歳で没した後、 この庵を改めて寺となしたのが今日の宗賢寺です。

詳細情報
住所飯塚市内野
3084
TEL0948-72-0287

  
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