鯰田の晴雲寺脇の坂道をのぼり、国道200号線にかかる陸橋を渡ると左手の高台に土地の人が「殿様の墓」として昔からあがめている古いお墓があります。
台座は約1.8mの真四角で、高さは3.6mもあり、花崗岩の切石でできた堂々とした立派なお墓です。有角五輪塔という桃山時代以降に主として領主、大名一族の墓塔として流行したものです。これが鯰田城の城主、野村大学のお墓です。
野村大学の父は黒田如水・長政父子につかえた黒田二十四騎の一人、野村太郎兵衛祐勝です。彼の本性は曾我氏で、村の名前を取って性を野村に改めました。播磨国(現在の兵庫県)の生まれで、福島正則から「日本号」という槍を飲み取ったといわれる、かの有名な母里太兵衛友信の弟にあたります。
野村太郎兵衛祐勝は幼時より黒田家に仕え、天正12年(1584)の根来雑賀(ねごろさいか)との戦いを始め多くの戦功をたてました。天正16年に黒田長政が宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)を中津城で殺害したときには、命じられて鎮房を切り伏せ、豊前国においては二千九百六十石を拝領し家老になり、文禄元年(1592)には長政に従い朝鮮に渡り、慶長2年(1597)に38歳で中津で亡くなりました。
野村太郎兵衛祐勝の長男、市右衛門祐直は、大学、隼人とも称しました。妻は後藤又兵衛の娘です。播磨国姫路に生まれ、慶長2年父が亡くなったので17歳の若さで黒田長政に従い初めて朝鮮に渡りました。慶長5年(1600)豊後(大分県)の石垣原の戦いで抜群の働きをし、慶長6年の筑前国嘉麻郡において五千石を拝領しました。翌年には一千石を加えられ、同14年には新田を加えられて六千九百六十石余となり、中老になりました。知行所の嘉麻郡鯰田村に晴雲寺を建立し、寛永8年(1631)鯰田村で51歳でなくなりました。
野村大学は馬術に優れておりましたが、後藤又兵衛や母里太兵衛のような戦闘派の豪傑ではなく、戦術家として知将に属する武将であったと言われています。
野村大学のお墓は福岡城の方を向いて建っており、それは「死んでも殿様を守る」という彼の強い意志が表わされていると言われています。