牟田炭鉱のはじめ(伊藤伝右衛門時代)
鎮西鉱はむかし牟田炭鉱と呼ばれていた。鉱区はなだらかな起伏のある潤野丘陵のうち、花瀬・鎮西・牟田にひろがっていた。

石炭の発見は潤野鉱と同じく宝暦年間とみられる。明治2年鉱区が開放され採掘も自由だったので、家族や使用人をつかい「石ほり」といって掘っていたようである。
土地が平坦なため、たこつぼ式の直径1mの立て穴をほり、深くなると3本柱のはね木を設け、4斗だるにつるべをつけ大づなを上下して掘りだした。

明治6年「日本坑法」ができてから村の共有地を盛んに掘り、排水ができなくなるとまた新らしいところを掘ったので、あちこちに穴ができ軍隊の野外演習のときには危険なので赤旗をたてていたそうだ。
この鉱区は山本延太郎(現在牟田の山本幹助の実父)が、明治6年日本坑法による借区開鉱願によって所有していたのを、幸袋の伊藤伝右衛門、中野徳次郎、松本健次郎が譲り受け、三者の共同経営で始めたようだ。 その後松本は明治鉱へ、中野が相田鉱を始めたのが明治30年である。
 
当時は「たぬき掘り」であったが、排水がいちばん困難で湧水にあうと切り羽を見すてなくてはならず多大の影響を及ぼした。 近いところは手びしゃくでくみだしたが、坑道がのびるとふいごをつくって、2、3丈もある大竹の節を通し、その竹の中に小竹を入れて水鉄砲の要領で排水し、坑道が長くなると水溜めをこしらえ、何本かの竹で坑外へ排水した。
 
明治31年ころ、伝右衛門は硯在の鎮西鉱杜宅の川向う付近に蒸気ガマを取りつけたが、これが始めての蒸気による動力で排水および巻上機につかわれた。
そのときのようすを赤間幸太郎(82才)にきくと次のようである。花瀬街道をコロをつかって蒸気ガマは運ばれたが、付近の人は珍らしく大きな機械に目をみはった。 またこのとき土台に始めてコンクリートを使用しているが、毎日数台の車力に気勢をあげながらにぎゃかに、砂や石を運んだそうである。当時にしては革新的な事業といえよう。