飯塚の炭坑画

この絵画は木村健一氏より飯塚市歴史資料館に寄贈された炭坑画です
絵画の説明文は木村健一氏によるものです。


画:木村健一
提供:飯塚市歴史資料館


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日鉄二瀬中央鉱業所(にってつふたせちゅうおうこうぎょうしょ)  

正門入口

建築学的には珍しい建物と言われており、取り壊されたのが惜しまれる。絵は道がきれいだが、もっと前のは狭く普通の道で1度のちにきれいにされたことがあるのではと思う。敷地内は広く立坑(たてこう)の辺りが今のジャスコで、駐車場内に工場(こうば)がいくつかあり、一番北西側はし辺りに豆炭工場(まめたんこうば)があったのではないかと思う。正門の赤レンガの門柱は今も残されている。 

本部事務所

日鉄中央鉱本部のグレーの建物は、大正時代の姿を伝えるもので、英国式建築様式を伝える。赤レンガの門柱は今もジャスコのところに残されている。
雪が積もると、建物は雪の白さとよくマッチして独特のムードを出していた。
(資料:綿島一彦氏撮影の写真より) 


堅坑・繰込み所・鉱員浴場

この入口を入っていくと右手に繰り込み所がある。正面から入ると左右に分かれ、中は案外広く左手中央よりロッカーがあり左手には鉱員の人たちの使うキャップランプの電池の充電器がズラーッとならんでたくさんランプがぶら下がっていた。右手は脱衣場と浴場で、内湯と外湯があり熱い湯が噴き出していた。蒸気の音がポンポンして人声と一緒にかなりうるさかったらしい。スミで真っ黒のおじさんたちが目をギョロギョロさせて上がって来てきれいに変身して帰るところである。


竪坑(たてこう)

この絵は立坑(たてこう)の鉱口(こうぐち)への道ですが、炭車(たんしゃ)の線路ですから一般には立ち入り禁止であった。ここまで来るとその大きさに圧倒された。東洋一もウソじゃない。右、左とも実は細い通路があり、右を通って繰込み場(くりこみば)へ下りる。ケージの乗降口の下は真っ暗の穴だった。この絵からすると現在のジャスコ穂波店の位置がよく分かる。この立坑の辺りが一番突き出たピンクの塔で下へ入る屋上入口付近である。(後略) 

竪坑捲運転室
(たてこうまきうんてんしつ)

竪坑には、鉱員を乗せて地底へ消えていくのを操っているケージのロープが6本か7本あり、1本1本が太く、ずーっと先の運転室までつながっていた。一体あの中はどうなっているのか興味があった。今ここにそれを描いて、40年ぶりの納得。運転室の中には、巨大な歯車、メーター、圧力計、深度計、運転レバーとスイッチなどいろいろとあった。1本のロープにすべてがかかっているため、運転係のおじさんの真剣なポーズはその緊張感が出ている。
(資料:綿島一彦氏撮影の写真より)

ヤマのデパート
(上は片峰職員社宅1952年)

繰り込み場へ下る途中の右上にあった。何でもあった。西側には喫茶店があった。
メニューケースにコーヒー30円、ココア60円とあった。ココアのほうが高かった。グラッと来たがあきらめた。クジラが大きな塊、ブロック肉一個の大きさで60円。クジラよりココアの方が高かった。

豆炭焼場(まめたんやきば) 

粉炭(ふんたん)を集めて加工して焼いたものが豆炭(まめたん)で、今でも扱ってるところもあるが、昔のものとは形が違う。昼夜となく煙が上ってガス臭く、炭坑へ来たときからこの匂いには悩まされた。しかし、このガスこそ炭坑らしい匂いのひとつだった。


豆炭工場と穂波社宅

日鉄二瀬坑の代表的な風景。煙突が並び、ケージ(竪坑)があってけむりが流れて、社宅があって、すべてそろっている。本当の生きたヤマの風景である。豆炭工場はいつもけむりを吐き、火が燃えていた。枦山(はぜやま)のボタ山もまた、火が燃えていて、夜になると手前近くに見えた。工場の大通りをはさんで、手前に社宅があり、そのちょっと右手には山神社へ上る石段があった。その前の道を北へ上って行くと穂波社宅から二瀬の方へ出たと思う。この細道からだと二瀬にある公衆浴場の方に出たと思う。


中央坑赤い金橋風景

日鉄にいる人にはなじみ深い橋。これがないと向こうへ行けなかった。この下は石炭列車の線路で橋の上からよく列車が行くのを見ていた。多いときは50両も続いただろうか。長いときは、つき合うのもあきた。この橋の向こうのすぐ手前の店は釣具店だったそうだ。そして、その一つおいた上が田中理容店で、はじめて髪を分けるときにここのおじさんにしてもらって現在まで7・3である。今この店はモダンになっている。


金橋下を出発する石炭列車

これは金橋(かなばし)で当時はこんな風だった。今のジャスコへ通じる道が鉄道で石炭列車を引くSLが毎日通ってよく橋からみていた。多いときは60両近く引っぱっていることもあった。ふつうは35〜6両ぐらいで車体にオレンジの線を引いた急行便もあった。

石炭つみ出し(二瀬信号場)

この絵のように石炭列車が若菜から二瀬へと走っていて若菜、幸袋、そこから目尾(しゃかのお)、小竹へ入って若松へ続いていたようだ。見ていると、列車は一度ここで停まって機関士が信号所の人からタブレット(識票)を受け取って合図を待って発車して行った。当時の国鉄では、この票が重要だった。この受け渡しがないと運行できなかったようだ。金橋の上の家は最近まであった。

枦山のボタ山(はぜやまのぼたやま)  

ここでボタを捨てて山は大きなピラミッドになっていった。ボタをつんだ炭車が中央の建物のまん中の金筋の中に入る。そして、ここで炭車ごとくるっと一回転して下に止まっている大きな箱にボタを落とす。この箱がのぼっていって山の頂上にボタを捨てた。

坂口坑(新坑)と思う。ここも割と広くヤマらしかった。右手の土手に坑口があった。他にもあったかも分からない。

これはどこの炭坑でもあったと思う。炭坑では電気、水、風呂は無料だった。この給水タンクでよく遊んだが中を覗くとゴミだらけ。なんでも浮いていてイヤな気がした。

鉱泉(こうせん)
(枦山のボタ山の裏 1946年)

中央坑枦山のボタ山の裏の下にあった鉱泉で一番大きくて大勢の人が入ってにぎやかだった。男女混浴で子供もあそんでいた。

実は、ボタ山にのぼるのは大変危なくて足元はすべる。しかし、小遣い稼ぎにボタ山にのぼってスミを拾ったこともある。そのときは、高雄坑だったが。
これは枦山のあの三角のボタ山である。枦山の池のまん中の道を通ってのぼったが、秋晴れの早朝で雄大だった。中央に横田が一望できた。この位置までのぼったら少し平らなところがあってそこに腰かけた。右横の池からの道を北へ出ると花瀬―横田間の道へ出る。その下の田園の一部に今、ミスターマックスがある。そのころの橋は木だった。上から見るとおり川面はこうなっていた。(後略)

枦山・桃山社宅

枦山・桃山社宅(昭和26年)

ここでは当時の日鉄二瀬の二瀬、枦山社宅が全部入っています。桃山、新納屋(しんなや)のあるボタ山の向こうなので見えない。金橋のそばに詰所と駐在所が見える。穂波社宅へ下る大通りの角の床屋もみえる。橋から手前にかけて釣具店、衣料店、丸林薬局、田中理容店、鍛冶屋と続き、会館や病院へと続く。手前左方には、確か寮のような2階建ての家があったと思う。この風景も今はなく大きく変わってしまった。

桃山社宅(1953年)

桃山社宅の一部。この道を右へ戻って少し行って北へ曲がると坂になっていて社宅がいくつかあった。一番上に上ると前方がガードで枦山へ右に行くと二瀬へ出た。絵の道を下左の坂を下って社宅の間を抜けていくと少し先で枝国四区辺りか西端に出て、北へ曲がると枦山のボタ山の裏へ出て例の大きな炭坑の鉱泉に出る。それを真っすぐ北へ抜けると花瀬へ出て、東へ折れたら横田へ出る。枝国を真っすぐ西へ抜けると竜王山の方に行き、南に下ると小正へえ出た。

日鉄二瀬中央坑 潤野(うるの)  日鉄二瀬中央坑 若菜(わかな) 
 

日鉄高雄坑(にってつたかおこう)  

高雄坑イギス

この絵は、二瀬伊岐須からみた風景で、旧日鉄高雄坑の一部が右上方に見える。このころは両岸がバラック風の家でせまい路地になっていて本町通りから入っていけた。この道の途中からさらに右折すると映画館の新世界会館へ出た。この川の風景は今も変わらないが、前方の橋は木から鉄骨に代わり、右岸のクラブ風の建物はない。左前方の柳の木の向こうのところに木の陰になって見えないが、小さなパン工場が当時はあった。ナナメ向かいが高雄坑の診療場でその向こうが坑内。その向こうに奥町社宅と浴場があったと思う。左前方に一部の社宅が左下に当座店、このカドから相田への道が見事な桜並木だった。

積み出し口

今の川津の二瀬支所からずーっと西へ、山の手へ日鉄高雄坑(にってつたかおこう)があってずーっと続いていた。高雄坑のボタ山は2つあって支所の裏辺りにあった。炭鉱敷地は川端社宅(かわばたしゃたく)とそのずーっと上まであって川が間に入っている。絵のこの引込み線にはいつも貨車が止まっていた。当時はここから先は確か行き止まりだった。横手の空き地から細い道を社宅の方へ入っていったと思う。今の高雄団地は当時は山の下まで奥町といって社宅だった。(中略)今は山の手の下を水江から相田方向まで車道が通っており、九工大の裏手になっている。
(資料:綿島一彦氏撮影の写真より)

 

幸袋線二瀬駅

若菜―幸袋線で二瀬駅から川津への間。この鉄橋の前後は当時はこんな風で大体昭和40年ごろまでは見晴らしがよかった。とくにこの絵の30年ごろは片島小もよく見えて水江の水門の辺りまで見えた。
 

日鉄二瀬山神社(にってつふたせやまじんじゃ)

これが山神社(やまじんじゃ)で大鳥居の向こうに神殿がある。この社(やしろ)は独特である。大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)は平屋根だった。一般の神棚の平屋根と同じである。日鉄のはての大山祗神(おおやまづみのかみ)なのでどこの家もこの神様をお参りしていたと思う。ヤマの守護神として。
(資料:綿島一彦氏撮影の写真より)

山神社(神殿と相撲場)

これは神殿で御手洗のあるところから描いている。神殿はこうなっていて、絵の表現上奥の院が一部見えるようにしている。左手には相撲場があった。

山神社神楽(やまじんじゃかぐら)

これは山神社の広場境内のはしにある石塔である。石塔には梵字(ぼんじ)がほってある。この空き地で11月3日の秋まつりがあった。神楽もここでした。この北のすぐ下に二瀬社宅が見えていた。


西徳前日鉄正門十三仏
(1948年)

徳前のところにあったものでももう少し道がせまく大きな木が茂っていたと思う。左手の大木で一休みした思い出がある。今のジャスコ穂波店の東口である。13仏の石仏さんもあった。

枦山社宅(1952年)

枦山の池とその一帯。池は二つあり、両側手前が上の堤で北側前方が下の堤である。どちらも大きな鯉やフナ、ハヤなどたくさんいた。ドンコやメダカもいた。南側にはライギョウ(タイワンドジョウ)がいて小魚をえさにして小魚はへっていくので、カエルをつけて釣り上げては僕はやっつけていた。上の池は蓮根が多く、葉陰に大きなフナがみえるとえさを入れパクリとくわえるとすかさず釣り上げた。(後略)

片島の水門口(新飯塚へ渡る橋)

この風景は1952〜3年ごろで、飯塚市片島の遠賀川水門口である。水門口そばの右手から右方向へ堀があって水路が通っている。今の緑道公園がそれである。橋に通じる道(右)は今の国道201号線で飯塚―田川線で新飯塚方面へ続いている。この右角に今ガソリンスタンドがある。左手角下にはミスターマックスがあった。水門口左手端には木が3本ぐらいあって当時は広々としていた。ぜんざい、コーヒーと呼ばれた川だが、それでも当時ここから水江にかけてはウナギが釣れシジミも捕れた。今はきれいな川面だが、合成洗剤が全滅させてしまった。

炭坑時代の穂波町役場

この堀は今はなくなって埋め立てられ車道になっている。ジャスコへ出る道である。堀は細いのが一部残っているのみで昔の面影はない。民家の向こうに一番南はしのえんとつがみえている。歩いている人もカンカン帽にゆかた、黒の兵児帯(へこおび)といった人が見える。この絵の一番手前の道は分かれ道で、左へ北へ行くと枦山のボタ山の西へ出て今の花瀬と横田への交差点へ出る。当時ここに左はしの2階建てがあった。枝国の道はせまく、洪水が出やすかったようだ。

飯塚市本町永楽町東町合流点(1946年)

飯塚市本町、永楽町、東町の合流点でかつて堀の上に市場が築かれにぎわっていた。これはそのころのもので戦後の一時期まであった。今は市場はこの少し上に移って、堀は道路になって、ここは信号機のついた交差点になった。水路の風情も今はない。

飯塚市吾妻座
(いいづかしあづまざ)

西町の今の臨床検査センターの昔の姿で、当時は大きな芝居小屋だったが戦後進駐してきた米軍の娯楽施設として接収され映画館になったようである。今の私ぐらいの世代以上は、その若いころにこの映画館で映画を見て夢をはぐくんだと思う。この劇場は当時筑豊随一の洋画の殿堂だった。ここのカンバンのスターのにがお絵がとてもきれいですばらしく、私は近所のおねえさんが一枚もらってきたのがキッカケで、それを見てひかれて…(中略)。ここの画工の坂本さんと支配人と社長さんの好意で、しばらく絵の勉強をいうことで一年半ぐらい手伝いをしながら描いていたことがある。似顔はむつかしい。この映画館も看板つくりも知っている。ここには私の青春時代の特別な思い出がある。